2007年02月02日

河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・3

(バビィエ商会)
スイスという西の小国が日本という東の小国へ使節団を送るという事実は、アメリカ、イギリス、フランスなどの列強による外交団の影で誠に特異な印象が現代の私たちは少なからずあるものと、思われます。しかし、この一小平和中立国スイスの使節団は半官半民で、6人の使節団のうち、4人までが日本に定着した誠に合理的な使節団である事に驚かされます。河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・3これからは、ファブル・ブラントと同じく使節団に加わり、条約締結後、日本に定着した4人について語って行きたいと思って居ります。

商人の肩書きで使節団に参加したエドゥアール・パビィエは条約締結後に使節団を離れて、米一番館ウォルシュ・ホール商会で2~3年働いて貿易の経験を積みました。そして、157番地に「バディエ商会」を設立し、生糸の輸出を営み、後ほど語りますが、「シーベル・へグナー社」「ファブル・ブラント商会」と並んで居留地有数の商館になりました。1872年に76番地に新築され、ノーウィッチ・ユニオン火災保険会社の代理店やデンマーク総領事を委託されました。また、フランスに大きな生糸市場を持つバディエ商会は馬具とスカーフで知られる老舗「エルメス社」との取引が1950年代まで続きました。横浜スカーフが世界的に知られる事に大いに貢献したと考えられます。

しかし、総合株式会社としての再構成をしなかったバディエ商会は、歴史の節々で次第に日本の企業に吸収されて行きます。関東大震災で商館が壊滅すると、バディエはスイスに帰って二度と横浜へ戻りませんでした。その後「バディエ商会」はフランス人絹専門家リオポール・オドワイエに引継がれましたが「日中戦争」「世界第一次二次大戦」という世界の出来事により、「バディエ商会」→「オドワイエ商会」が横浜から消えたのは1987年だと言われます。消えてしまったんですねーカモメ次は「シーベル・へグナー社」について・・・・

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Posted by shin344 at 10:17│Comments(2)歴史
この記事へのコメント
ほぉ~っ。。。絹の生産が栄えた横浜にそんな歴史背景があったんですね~。
横浜スカーフ、素敵ですものね。 大切にします。
Posted by Ziggy at 2007年02月03日 18:45
☆Ziggyさん。これからお話しする「シーベル・ヘグナー社」もシルクに貢献しますよ。絹は当時、日本の特産品ですから、外国の技術とあいまって、横濱スカーフになったんでしょうねー。八王子から今の横浜線沿いは、横浜で取引きされる絹の街道・・シルクロードと、呼ばれていたそうです。
Posted by scemo3440 at 2007年02月03日 19:34
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