2007年02月09日

河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・6

(ファブル・ブラント商会2)
ファブル・ブラントは後の明治高官との友好関係を商業化する人物ではなかったと言われておりますが、私は、長岡藩や薩摩藩双方に武器の仲介をした、言わば「死の商人」の顔を感じます。その事に対する良心の呵責があったのかなかったのかは分かりませんが、ファブル・ブラント商会がその後も規模は大きくともあくまでも個人的な企業で終わったのも感じるところはあります。河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・6ファブル・ブラントは横浜の外国人射撃クラブの会長になると、日本人も入会できるように努めました。彼の裏庭の射撃場には、閑院宮、大山巌等が頻繁に訪れたと言います。特に西郷隆盛との親交は深かったと言います。西郷隆盛が征韓論に破れて鹿児島へ帰る(野に下る)前、西郷はファブル・ブラントを横浜に訪ねました。二人は何も語らなかったといいますが、後に西南戦争で子息、菊次郎が負傷すると、一時ファブル・ブラントに匿われ、そしてアメリカへ留学するが、これもファブルの後援でした。菊次郎は後に京都市長になりました。

文明開化の時代、ファブル・ブラント商会は時計輸入で盛況を極めました。明治年間に大流行の時計ですが、掛け時計、置時計はアメリカが優位、懐中時計は圧倒的にスイスが優位でした。ファブル・ブラントの時計には全て画像上の銘が入っていました。また、現開港記念開館の地に河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・6横浜町会所が建設されましたが、その時計台にはファブル・ブラント自身が塔に昇り指示したと言います。また工業技師としてのファブル・ブラントは富士山にて測量して、気象台創立以前の気象予報は彼の観測がもとになっていると言われます。このような日本への限りない貢献に幾度か叙勲の話もありましたが、その都度彼は断ったそうです。

日露戦争後の軍備はすでに一商社の出る幕ではなく、武器工場代理はもはや無用の長物となっていました。ファブル・ブラントは居留地の長老として敬愛を受け、日本人の友人を多く持ち、晩年は安穏だったはずです。また、彼の最大の天啓は第二の故郷として青春をささげて苦楽を共にした「横浜」が関東大震災で壊滅する事を見ることなく震災24日前に逝ったことでしょうか・・・この震災で壊滅したファブル・ブラント商会は再び起こることもなく、跡地も政府に買収されて、現在はNTTビルになっています。次は河井継之助を取り上げたいと思いますが、余裕のある方には司馬遼太郎作「峠」を読まれることをお勧めします。

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Posted by shin344 at 17:43│Comments(2)歴史
この記事へのコメント
こんにちは♪

ファブル・ブラントが富士山観測に関わっていることを初めて知りました。

新田次郎の「芙蓉の人」に野中到夫妻の富士山観測所のことが描かれています。
気象予測のためには高層気象観測所が必要であると、
明治28年に自ら富士山観測所を作り冬季観測を行なおうとしたことが描かれており、
小説を読んでいるだけで風邪を引きそうでした(笑)
Posted by バック at 2007年02月10日 11:09
☆バックさん。こんばんは!
ファブル・ブラント商会はこの富士山の測候を含めて、幕末から
1900年代までの最高潮期には、同社が日本総代理店を勤めた
のは、シュナイダー・クルーゾ銃器工場、ユニオン金属会社、
ノイハウゼン武器工場、アメリカ、フランスの武器会社、ベルギーの
水道会社、灯台用電気器具会社など数々の取引先があったそうです。
大阪にもファブル・ブラント商会の支店がありました。
富士山の測候をしていたことは、私も初めて知りました。
ファブル・ブラントが富士山の測候をしていたのは明治29年頃と
記録がありますから、きっと、野中夫妻が富士山測候所を
作るまでは続いたのかも知れませんね。
貴重な情報をありがとうございました。
Posted by scemo3440 at 2007年02月10日 20:26
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