2007年02月24日
河井継之助とファブル・ブラントと長岡戦争と・・・8
河井継之助は長岡藩では保守的な官僚からは嫌われる存在、いわゆる先見の明があり、古い壁を破って藩主にずけずけと物を言う人でした。藩主、牧野忠恭も事の外河井の先見の明を愛したようです。牧野忠恭が文久2年(1862)に京都所司代に任命された時も、猛烈に反対して、翌1863年には河井の建言で京都所司代を辞任させております。ちょうどその時期、京都守護職に任命された会津藩主、松平容保ですが、その後の会津藩が味わった過酷な運命を、長岡藩も味わうという先見の明があったからこそ、このような建言が出来たものと思われます。
画像は河井継之助が生涯の師とした岡山の「山田方谷」です。山田方谷は農民出身ですが、その学識をもって、備中松山藩の藩政指導者になり、松山藩の逼迫した財政を立て直した学者です。河井継之助は安政6年(1859)に江戸の古賀塾からこの山田方谷の元へ学びに行っています。後の長岡藩の内政改革には、常に山田方谷の思想が感じられます。
山田の思想は一言では語れませんが、武士が原点に戻る「屯田兵」のすすめかと思います。武士は本来戦闘のない時は農民として生産していましたが、この頃の武士は生産をしませんでした。この事は、藩の財政を逼迫し逆に商人を富ませるようになるだけでしたので、原点に帰って、武士も生産すべきだと言うのがその理屈です。
どうも大変退屈なお話しばかりですみませんが、次には河井継之助とファブル・ブラントの出会いが果たしてあったのかなかったのか、どんな形で出会ったのかなどを考察して見たいと思います。
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Posted by shin344 at 18:31│Comments(0)
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